建設業への想い

建設業への想い

現場で働く人達の支えになりたい

あの日痛感した建設業の大切さ、その想い。
心の底から考える “サポートへの想い”

東日本大震災で感じた建設業の大切さ

東北の震災から2週間くらいした後に友人から「お前、何もする気ないのか?」って言われて。

「分かった俺も行くわ」となり、色々探してもらったら、気仙沼だけが個人のボランティアを受け付けてくれてるというのが分かりました。

どこの自治体も保険の問題とかがあるので団体しか受け付けていませんでしたが、気仙沼は大丈夫でした。

実際行ってみたら、朝決められた時間にボランティアセンターっていうところに行くと、ボランティアが集まってきます。

その順番に運営スタッフから1軒1軒の「何々町何番地の何々さんの家の片付けをして欲しい」というニーズ票があって、どんどん配られていきます。

その現場のボリュームによって「じゃあ、あなた、あなた、あなた。3人で行ってください」って感じで束ねられて、それでそのボランティアスタッフの人の運転する車に乗って現地に向かいました。

気仙沼の沿岸部で建物が残った地区は津波が建物の2階の高さまで押し寄せて中がヘドロだらけでしたので、とにかくそれをかき出す作業を3日間ぐらいやりました。空いた時間には被害にあった状況を歩いて回ったり、夜には高台に営業している居酒屋もありましたので、居合わせた地元の方たちともお話をする機会がありました。

あの時まだ新東名は
開通していなかった

東北自動車道は内陸にあり、
震災の被害が少なかったから私たちも気仙沼に向かうことが出来ました。

途中、救助に向かう自衛隊の隊列と何度もすれ違いました。
もし東北自動車道が使えなかったら、救助活動もまた別の状況になっていたんだろうなと思いました。

後で調べたら、災害直後から国土交通省は地震の被害を免れた内陸の道路から「くしの歯」のように海岸線に向かって道路を順次復旧していく作戦を展開していたんです。
私たちが気仙沼までたどり着けたのは、静岡から”くし”の背骨である東北自動車道を経て、気仙沼に向けて海岸線に伸びる”歯”の道路が復旧されていたからということが分かりました。

ボランティア活動が終わり静岡に帰ってくる時に東名高速道路の由比PAのところで休憩しました。
江戸時代には東海道の難所と言われ、広重の浮世絵にもなっている薩埵峠から見下ろせる位置にあります。

そこで新幹線と国道1号線と東名高速という重要な路線が山と海に挟まれた狭い場所に集中していることに気が付きました。
友人と「もし大地震があったらどうなる?新東名は必要だね」と話をしました。

その時にあらためて道路の大事さを実感し、工事に携わる人たちを縁の下でサポートしたいと思いました。

僕らが建設会社さんにできること

現地にお邪魔して思ったのは、僕らの商売(行政書士)ってこんな時は弱くてせいぜい相談されることに対して答えるぐらいしか無い。
改めて自分の職業の価値っていうのを考えました。

でも弱いなりにも普段から建設会社さんのサポートをすることで、何か間接的だけど役に立つことがあるのではないかと思い直しました。

緊急の時も、復旧・復興の大きな計画を立てるのは国土交通省や都道府県ですが、実際に重機に乗って作業されるのは地元の建設会社の従業員さんなんですよね。
そして地元の建設会社さんが、1台でも1人でもそういう時に動けるかどうかっていうのは、やっぱりその会社さんの経営状態によると思います。

どれだけ普段、内部留保をしっかり持っているかとか、従業員さんの結束が固いかどうかとか、重機の手配とかもどんだけレンタル会社から手配して来られるかどうかって結局、会社の普段の力がモノを言うと思います。

自分のルーツが影響している“サポートへの想い”

幼いころから建設業に関わる方と職人さんには親しみをもっていました。

幼いころから建設業に関わる方と職人さんには親しみをもっていました。
私は昭和46年、昭和初期から続く建築塗装店の長男として生まれました。
初代である祖父はすでに現場からは引退し父が職人さんを率いていました。

私の少年時代は人口がどんどん増え日本全国で開発が進んでいった時期でしたので、父が家でゆっくり休んでいる姿はほとんど記憶にありません。
年に一回、夏休みに家族で泊まりに出かけるのがとても楽しみでした。
とにかく住宅新築の仕事がいっぱいで、塗り替えのお客様には半年や一年ぐらいはお待ちいただくのが当たり前だったと思います。

毎朝7時にもなると自宅に大工さんから電話がかかってくる一方、職人さんが続々と集まってきて、トラックに乗り込み現場に出かけていきます。
夕方、職人さんを乗せてトラックが戻ってくると、私と弟は一斗缶、道板、三脚などが括り付けられたトラックの荷台を、ジャングルジムのようにして遊んだものです。

新築中の自宅を掃除
父と塗装用の刷毛を虫干し

本当に様々な業種業態の建設業者様とご縁を頂きました。

その後、塗装店の跡取りは弟に譲り、思春期の頃は建築家になることに憧れた時期も少しありましたが、大学を卒業した後、紆余曲折をへて31歳の時に行政書士という職につきました。平成15年に独立し毎日あくせく働いているうちに、不思議と建設業界の方とのご縁が濃くなっていきました。

建設業法では建設業を29業種に区分しています。今ではそのほとんどの業種で、公共も民間もあり、会社の規模も株式上場している企業から一人親方の職人さんまで、社歴も独立したてから創業100年以上まで、本当に様々な業種業態の建設業者様とご縁を頂きました。

春夏秋冬、決算の時期に合わせて訪問をさせて頂き、色々なお話を聴かせて頂いております。皆さまとの繋がりが私の大切な財産です。

時代をつなぐ行政書士の仕事

曾祖父のひとりが大正から昭和の戦前くらいに、裁判所の前で司法書士をやっていました。

当時は職業が分化して行く前で「代書人」と呼ばれていたころです。
亡くなった祖母から聞かされた昔話では、その頃は字が書けない人も珍しくはなく、時には依頼人のためにラブレターを書いてあげることもあったそうです。

その頃は今みたいにLINEなどで気楽に言葉をやり取りとかできない時代ですから、ラブレターを書くっていうことは一生のうちに何度も無いような一大決心が必要な行為だったと思います。

もしかしたら一通のラブレターがきっかけで依頼人の恋が実り、結ばれ、家庭を築くことができたかもしれない。
そう思うととても意味のある仕事だと思えてきます。

私とはちょっと職業は違うし、会ったこともない、血も繋がってはいないですが、そこは自分としては勝手にDNAが繋がっているんだ、縁があって同じような仕事に就いてるのだと思っています。

それでは当時ラブレターだったものを、今はどうやって表現するか?
自分の中で出したひとつの答えがこのサービスです。

司法書士の曽祖父

建設業者様の未来のためのサポートを強化していきます

建設業界は、自動車業界に次いでGNPに占める割合が大きく、全国の津々浦々に、職人さん、技術者が存在し、地域の生活を支えるという役割を担っています。
衣食住といいますが、どんなにデジタル化が進んでも、この世に人が生きている限り、建設業の重要性、現場で人の手が要る仕事、職人の必要性は今後も変わりません。

一方、日本の企業は経営者の高齢化と後継者不在による廃業が年々増えています。
建設業界はもともと新陳代謝が激しく、若くても独立開業のチャンスがある業界です。
しかし世代交代のなかで、ベテランから技能や技術の継承が確実にされていかないと、生活インフラという国の土台が揺らいでしまうことになりかねません。

先祖や家族から引き継いだ憧れやこだわり、小さな習慣から人生を好転させられた経験、誰でもいつでも人生をやり直せる、という教訓を活かし、建設業の技能や技術の継承、組織の発展に貢献することではないかと思います。

そのために行政書士の立場から建設業に携わる方の持続的な発展に向けたサポートをすることが私の使命であると思っています。

行政書士法人みそらの会社概要

20年の経験と
長年のご縁を還元します

代表 塩﨑宏晃

建設業法では建設業を29業種に区分しています。

公共も民間もあり、会社の規模も株式上場している企業から一人親方の職人さんまで、社歴も独立したてから創業100年以上まで、
20年間で本当に様々な業種業態の建設業者様とご縁を頂きました。

春夏秋冬、色々なご相談を頂いております。
皆さまとの繋がりが私の大切な財産です。
ぜひ、末永く、お付き合いさせてください。

代表行政書士
静岡県産業振興財団 登録専門家

お気軽にご相談ください。

ご希望があればご訪問してご説明いたします。

オンラインでのミーティングも対応しておりますので、お気軽にお申し付けください。
もちろんLINEのみのやりとりでも大丈夫です。